突然、重いタイトルで失礼!
皆さんはご自分のお子さんなどから、こんな質問をされたことはありませんか?
「人間はどうして生きるの?生きていかねばならないの?」
思春期には、誰しもがこの難問題と向き合うのではないでしょうか?
しかし、いつのまにかその面倒くさい難問は「パンドラの箱」に封印されてしまい、
大人になると、生きるのは当たり前と、その問題から目をそらしてしまう。
目をそらす、と言うよりそのような思考は忙しさに紛れて考える暇もないのかも知れません。
実は先日、ある生徒さんからこの質問を直撃されてしまって、たじろいでしまいました。小学生の時はゲームやアニメに興じていた彼が、高校生になってこんな質問を投げかけてきたことに、ある意味ほっとさせられもしました。ちゃんと大人への階段を昇っているな、って。
「人間は生きているのではなく、生かされているのよ。」
「人間は生きているだけで、価値があるの。」
そう答えてみたものの、果たして生徒さんにどれだけ伝わったのか?
私もこの難問と再び向き合うことになりました。
誰しもこの問題と向き合う時は、何か壁にぶち当たった時だと思います。自分の思うようにならない時、挫折したとき、夢や希望が持てない時・・・あるいは、身内や友人の死に直面した時かも知れませんね。
生徒さんに質問されて数か月が経っていましたが、先日ふと立ち寄った本屋さんで、高校生にも気楽に読んでもらえそうだったこの本を買ってみました。こういう時って本屋さんに行くとそれなりの本に目が行ってしまう。出会ってしまう。本屋さんというのは不思議な場所で、必ず自分の潜在意識の中を見透かされてしまう。
読み進みながら、私自身パンドラの箱に封印していた問題を開封出来たと同時に、日常の「行」を見直すことができました。
メガネ拭き、アイロンかけに始まって、華道・茶道など、日本の伝統的なお稽古事は、仏教でいう「行」に値するのだとか。雑念を捨ててある行動をすることで、「対象と同調」「一体化」する。楽器演奏もしかり。あるいは人とのコミニュケーション(対話)も「行」である。
「行」によって物や人との境界線をなくしていくことで、自意識は小さくなっていくという。日常を丁寧に生きることこそが、心身を落ち着かせ、自在に生きることにつながる。
読み終えて、私ももっと日々の暮らしを丁寧にしなくては、と思いました。時間に追われる現代は質よりスピードを求めてしまう。
メガネを丁寧に磨く、アイロンかけに集中する、床の拭き掃除を丁寧にする、時間をかけてお料理をする・・・暮らしのすべてに「行」がある。
そう言えば私はスランプに陥った時、ピアノを弾くのを止めて、ピアノをピカピカに磨くことがある。確かに気持ちがスッキリして、また頑張れる。
この本は、仏教の考えに基いて著者が分かりやすく説いています。宗教は難しいとお考えになる方もおられるかも知れませんが、かつて私たちの暮らしには、自然に仏教が溶け込んでいたのです。それをもう一度見直すことで、生きることへの希望が蘇るのではないでしょうか?
そして生徒さんにも薦めてみることにしました。
ピアノの先生だからこそ、親には言えない思いを話せるのかと思います。たかがピアノの先生だけれど、こういう事には少しだけおせっかいさせてください(笑)